第七話





「レ、レイヴンっ! しっかりしろよ!」
 周囲の枝葉が開け、足元が平面に絡まっている様子は、巨大な樹の頂上ということもあって、
 そこだけ舞台のような神秘的な雰囲気を醸し出していた。
 秋螺は呼吸を忘れてレイヴンに駆け寄った。

「おい、いったい何があったんだ! お前、顔が真っ青だぞ……」
 フードが取れて初めて見た顔は想像通りの少年の顔だった。
 だが、目元はきつく布で覆われていて、秋螺は初めてレイヴンが盲目であることを実感した。

「月の明かりでそう見えるだけだ。……問題ない」
 秋螺が来たせいで隠そうとしているのか、荒い息と共に上下していた肩の動きが止まった。
 代わりに歯を食い縛って立ち上がる。

「レイヴン……こんなときになにカッコつけてんだよ……き、聞いてくれっ、女の子が……」
「危ないから……下がっていろ」
「……え……?」
 レイヴンの視線を追った時だった。
 今まで何の気配も感じなかったが、たしかにそいつはそこに居たのだ。

「だ、だれだ!」
 秋螺が認知した途端、そいつは圧倒的な存在感を放った。

「僕のことかい?」
 さっと風が吹いて、カウボーイハットが巻き上げられ、そいつの顔があらわになった。
 月の光に反射して、純銀に輝く琥珀色の髪。闇夜の中で獰猛に光るエメラルドグリーンの眼。
 白く、堀の深い顔立ちに高い鼻。
 明らかに日本人ではないそいつが、日本語で秋螺に答えた。
「はじめまして、僕はルイス・ロズウェル……。二代目レイヴンさ」
 まるで芝居をするように大仰に礼をしてみせる金髪碧眼の美男子。

 なんだって……?
 二代目……レイヴン?
 まさかこいつが、レイヴンを……?
 こいつは、……こいつが……。
 そこにいるだけで息苦しくなるような圧倒的存在感。
 呼吸を忘れさせ、指先を動かすこともためらわれるような鋭い眼光。
 手に持った大鎌が、きらりと煌いた。

 その迫力に押しつぶされそうになったその瞬間、苦しみの中にも凛と筋の通った、
 決意ともいうべき言葉が放たれた。
「違う! お前はレイヴンではない。ただの能力者に過ぎん!」
 隣に立つレイヴンの声だった。
 その声ではっと我に返って、秋螺はレイヴンを見た。

「俺は、お前に後を頼むといった覚えはない」
 言葉が放たれた瞬間、ルイスと名乗った男から、
 更に圧力のようなものが膨れ上がるのを肌で感じた。
 秋螺は、疲労で立っているのがやっとの思いだったが、意味不明の言葉の応酬を理解することに
 集中し、どうにか意識を保つことができた。

 怒りを眼の中に溜め、ルイスと名乗った男は、
「まだ言うか! 既に何の力も残っていない貴様にもはや次代を決める権利はない!」
 激しく言い放った。
 その凄烈、悲壮とも言うべき言葉に秋螺は眼を離せないでいたが、
 横でレイヴンが歯軋りする気配を感じた。
 秋螺にはいったい目の前で何が起こっているのか皆目見当もつかなかったが、
 レイヴンが何か貶められているということだけは理解できた。
 それが秋螺にとってなんだか腹立たしく、気がつけば無謀な言葉を投げかけていた。

「お前こそ何様だ! どんな権利があってレイヴンを名乗るんだよっ、
 お前なんかレイヴンじゃない!
 ここにいる、こいつがレイヴンだっ!」

 言ってからしまったと思ったが、もう遅い。
 その言葉がルイスの神経を逆なでしたのは明白だった。
 最初の挨拶のみであとはひたすらレイヴンに当てられていた視線が、ぎろりと秋螺へ向けられた。
「ひ……」
 秋螺は総毛立って後ずさった。
 レイヴンはなにも言わず、秋螺を庇うようにして前に出た。

 何故だろう。
 レイヴンとは数えるほどしか会っていないのに、
 言葉だってそれほど多くを交わしたわけじゃない。
 なのに、レイヴンの悪口を聞いて、黙っていられなくなって、相手に喧嘩を売って、
 どつぼにはまり込んだ自分を助けてくれることに、安心と信頼を感じている。

「小僧……」
 ルイスの目がすっと細くなった。
 それに伴って、溢れんばかりだった苛烈な意志も急速に消えてゆく。
 ろうそくの火が自然に消えるように、ルイスの圧迫するような気配が消えたとき、
 そこには氷像のような、あらゆる感情を廃した無表情の男が、
 視線のみをひたと秋螺に定め、立っていた。

「なぜここに、いるのだ……」
 むしろ秋螺は、この変わりように得体の知れない不気味さを感じていた。
 圧倒的な気配をところ構わず押し付けていた時の方がましだと思えるくらいに、
 静か過ぎるルイスの佇まいに秋螺は再び全身の毛が逆立つのを覚えた。

「何の変哲もない愚凡な一般人である貴様が、何故ここにいる……。
 選ばれし能力者のみが立つことを許される、このナンプル・ティディスの舞台に……
 何故貴様が立っている……!」

 秋螺の前に立つレイヴンが、静かに腰をかがめ両手の短剣を構えた。
 途端、ルイスの目が何かに唐突に気付いたようにかっと見開かれ、再び苛烈な意志が暴走した。

「そうかっ、貴様がっ!」
 台風のように荒れ狂う気配の奔流に惑わされ、平衡感覚を失いかけた秋螺に、
 ルイスが猛然と鎌を振るって襲ってきた。

「貴様が、貴様が選ばれたのかぁぁっ!」
 目がくらんだのかと錯覚するような、激しいホワイトアウト。
 それはルイスの大鎌とレイヴンの短剣がかみ合ってできた巨大な火花。
「隠れていろ!」
 レイヴンの初めて聞く焦った声。
 半ば錯乱したように鎌を振り回すルイスを牽制して、レイヴンが秋螺を蹴り飛ばした。

「ちょっ……レイヴン!」
 秋螺は舞台の端から虚空に投げ出され、
 十メートルほど下の大きなうろの中にすっぽりと入り込み、姿を消した。







「あぅぐ……ぅ……」
 受身をしそこなって、秋螺はうろの中の壁にしたたかに背中を打ちつけた。
 激痛。
 呼吸が止まり、苦痛に身悶える。

「き、君はっ」
 声のしたほうを振り向くと、静華がいた。
「あ、き、君は……」
 激痛と動揺で静華と同じ台詞しか言えなかった。

「しっ、静かにして……」
 静華は人差し指を口にあて、素早くうろの外をうかがった。
 異変が無いと見ると、再びうろの中に戻って、秋螺と対座した。

「あの後、やせた方は何とか倒せたんだけど、太った方がなんだかパワーアップしちゃって……、
 勝てないと見てここに逃げ隠れたの」
 そう言って秋螺の惚れたあの微笑をくれたが、それはどこか苦しそうだった。

「国崎さん……だったよね……その、ごめん……レイヴン、連れて来れなかった……」
 尻すぼみにどんどん声音が小さくなってゆく。
 こんな些細なことさえ、自分にはできないなんて……。
 情けなくて、悔しくて、穴があったら入りたいと思った。
 でもよくよく考えてみると、すでに穴に入ってるわけで、
 そんなことを考えている自分が余計に空しく、腹立たしくて、ますます自己嫌悪するのだった。

「いいのよ、それよりあなた大丈夫? かなり無理な姿勢で落ちてきたけど……」
 秋螺は慌てて身を起こそうとした。
 が瞬間、腰に激痛が走り短い悲鳴を上げたまま動けなくなった。

「さ、笹仲くん! とりあえず、横になって。動いちゃ駄目よ!」
 この期に及んで腰を痛めるとは、秋螺はもうあきれるしかなかった。
「かぁー、情けない……」
 小さく、呟く。

 自分は今何をしているんだろう。
 何がなにやらわからずここに連れてこられて、女の子を助けようとして能力者に喧嘩を売り、
 連れてくるはずのレイヴンを窮地に立たせた。
 そんな自分は今、自らの失敗で負傷し、助けるはずだった女の子に介抱されている。

 緊張続きの毎日。
 理解を超える事象の数々。
 級友が死に、家が壊れ、別世界、そう、今まさに別世界にいる。

 秋螺は泣きたくなった。
 何の変哲もない高校生だった自分。
 不変と信じていた平和。
 自分の居場所。

 ここはどこ?
 友達は? 父親は? 母親は?
 緊張の糸が、弾けそうになった。
 目尻に涙が溜まり、気を抜くと本当に泣いてしまいそうだった。
 それだけは避けたかった。

 年も変わらぬ異性がいる前で、赤子のように泣くことだけは避けねばならなかった。
 これを許してしまえば、自分は一生弱者だと自分に言い聞かせ、耐えた。
 一生懸命歯を食い縛り、腰の痛みに耐え、
 目元からわずかに溢れる涙を決して悟られないよう右腕で覆い隠し、数分、耐え続けた。

「笹仲くん……」
 ふいに、静華が呼びかけた。
 あらかた興奮も冷めてきた秋螺は気付かれないように目尻をぬぐい、静華に顔を向けた。

「これ、食べて。元気でるから、ね」
 差し出されたのは、手のひらほどの小さなリンゴ。
「これ……?」
「そ、笹仲くん、元気ないみたいだから。
 これ、あの能力者から逃げるときに樹に一つだけ生ってるのを見つけたの。
 本当はそんな余裕なんてなかったけど、なんか……、不思議な感じがしたのよ。
 これを採らなきゃ、食べなきゃって」

 秋螺を気遣って、何か無理をしているのかもしれない。
 ぱっと花開くような微笑みを投げかけてくれたが、秋螺はちっとも嬉しくない。
 身体の苦痛を隠しているような雰囲気がさっきよりも強く出ていたからだ。

 秋螺は首を振った。
「だったら、国崎さんこそ食べてよ。さっきから、すごく苦しそうだよ」
 静華は一瞬きょとんとなって、それから、
「……、そっか、そんなに元気ないかな、私」
 どこか諦めたような表情だった。

 秋螺は本気で、この少女がもうすぐ死ぬのではないかと思ったくらいだ。
「でも、ほんとに大丈夫だから。さ、食べて」
 静華が秋螺にリンゴを握らせる。
 リンゴはひやりと冷たく、そのとき触れた静華の手は、どきりとするほどもっと冷たかった。

「国崎さん、手が……冷たいよ……、俺、なんかより……国崎さんのほう、が……よ、っぽど……」
 いつしか秋螺は意識が朦朧としていた。
 うろの中、何も聞こえない薄暗い空間で横になることで、
 ずっと溜めていた疲労が襲ってきたのだろうか。
「笹仲くん、しっかりしてっ」
 静華の声が遠く聞こえる。
「これを食べて、お願い!」

――どうして、そのリンゴにこだわるのだろう。
  国崎さんが食べればいいのに……。
  そうさ、元気の出るリンゴ、俺なんかより……、俺みたいなどうしようもないクズな 
  んかに食わせるより……。



「あなたはクズなんかじゃない!」
 突然、口の中に酸っぱい、姫リンゴのような香りが広がった。
「んんっ……」
 酸っぱい、どこまでも酸っぱい、だけど……それは、どこかほのかに甘く香って。
「っ!」
 秋螺の意識が覚醒した。
 それと同時に自分の唇に奇妙な感触を覚えた。
「んんんっ!」
 より意識がはっきりしてくると、眼前に静華の顔があった。
 唇の感触は、静華がリンゴを口移しで与えていたのだ。

「……起きた……」
 今度こそ、とても柔らかな、安心した微笑だった。
「く、国崎さんっ!」
 と、突然静華が胸を押さえて苦しみだした。
 心筋梗塞のように胸を押さえてうずくまり、声を潜めて苦痛に耐えている。

「国崎さん! 国崎さんっ!」
 慌てて秋螺は倒れ掛かる静華を抱き起こしたが、静華は胸を押さえて喘ぐばかりで反応がない。
 そこで秋螺は気がついた。

――身体が、動く。

 痛みもないし、眠気もない。
 今なら飛べるような爽快感。
 秋螺は、大量の汗をかいて苦しむ静華を見、床に転がったリンゴを見つめた。

「……このリンゴが俺に力を与えてくれたなら……、きっと……」
 今は赤面しているときではない。
 何かを考えているときでもない。
 苦しみに耐えながらも自分を励ましてくれた少女が、今苦しんでいる。
 自身の権利と引き換えに、秋螺にリンゴをくれた。

「国崎さんっ、リンゴを、食べるんだ!」
 秋螺は夢中でリンゴをわしづかみ、齧り、咀嚼し、静華に口移した。
 今、静華がしてくれたように。
 このときだけは、ゆっくりと、やさしく。

――頼む、神様……。

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