第五話






「でぇい!まったく。
 これは本当に木なのか?登っても登っても果てが見えやしない」

 枝が複雑に絡み合った樹を、秋螺は懸命に登っていた。
 既に日は落ちてしまったのか、それとも幾重にも重なる葉に遮られてしまっているのか、
 目が慣れてきているとはいえ、ともかく見晴らしは良くない。

「レイヴン、か。
 あいつはいったい何を考えてるんだ…」

 登るのを止めずに考える。
 上空だけあって風が強いのか、葉擦れの音は絶え間なく聞こえる。
 だが、風はここまで届かない。
 忘れたように遥かかなたからサイレンの音。

 
 ばりばりばりばり!


 突然、枝を裂く破砕音。
 ぎょっとなって辺りを見回す。
「う…ちくしょう…」
 思ったよりも近くに、人がうずくまっていた。
「お、おい大丈夫か…?」
 その男は体中に傷を負っていて、暗がりからでも判るほど流血していた。
 長くは持つまい。
「ひっ…」
 突然の出来事に、足がすべり秋螺はしりもちをついた。
 複雑な枝の絡まりようが、遥か下方までの転落を助け、また今まさに奪われようとしていた
 命まで救った。
 ひゅっ、という音を聞いた気がして秋螺は上を見上げた。
 そこには太く鋭い氷が背後の枝に深々と突き刺さっていたのだ。

「我が一撃を避けたか。
 それとも、偶然かな」
 第三者の声がした方に目を凝らす。
 血まみれの男の傍に、何者かが立っていた。
 ちらりと見えた血まみれの男の喉もとにも、頭上にあるものと同じものが刺さっていた。

「だ、だ、誰だ。お前!」
 暗くてよく見えない。
 引き締まった体と、少ない月光にきらりと光る手に持ったそれ―氷―だけが見えた。
「これはこれは、申し遅れた。
 拙者は畑野智之(はたのともゆき)。冷気を操る能力者だ。
 して、お主は?」
 畑野と名乗った男は、秋螺を小馬鹿にするように一礼してみせる。

(能力者…?レイヴンと同じ力を持つ…!)

 レイヴンの力を知る秋螺は背筋が寒くなった。
 三度、死の恐怖を思い出す。

「見たところ、少年のようだが能力者に年齢の差はさほど重要ではあるまい。
 かの有名なレイヴンですら、少年だという噂だ。
 だが…」
 氷の反射と同じく、畑野の目も鋭く光った。
「その挙動からして見るに、それほど能力(ちから)を持っているとも思えん」
 男の傍で息絶える血まみれの男と、自分の姿が重なった。

 逃げられない、という観念はなかった。
 逃げるしかない、と思った。

 秋螺は背を向けて、走り出した。
「む。名乗りもせず、逃げるか。
 戦士の風上にも置けぬ。
 成敗!」
 次の瞬間には、秋螺の眼前に畑野がいた。
「うわぁ!」
 秋螺はまた身を翻して、逃げる。
 だが、畑野はまたも眼前に現れ、その時には既に氷の刃を振り上げていた。
「むん!」
 振り下ろされた凍てつく刃が秋螺の身体に食い込む寸前、刃が砕けた。
 次いで、ぱりんっと軽快な音を出す。
「何奴!?」
 叫んで畑野は一跳びで十メートルほど間合いを開け、周囲を警戒した。

「その子から能力者の気は感じないわ。
 大人しく退きなさい!」
 声は上からした。
 今度は女声だった。
「では貴様は能力者か!
 成敗してくれる!」

 畑野が飛び上がり、暗がりに姿を消す。
 一度だけ火花が飛び散る。
 畑野がもと居た位置に、女性が着地する。
 畑野の舌打ちが聞こえ、しばし睨み合う。

 サァ…。

 緩やかな風が、汗だくの秋螺を撫でていく。
 一瞬だけ枝たちが道を開け、月光が届く。
 光に照らされた彼女は、少女…。
 秋螺、そしてレイヴンとさして変わらない。
 だが、きつく畑野を睨む目は大人びていて、風に揺れた長い髪に
 秋螺は目を奪われた。

 突然鳴り響いた銃声に、秋螺は意識を戻された。
 少女は拳銃を構えていて、それを撃ったのだ。
「甘い!」
 畑野の声が宙を舞った。
 かと思うと、なんと少女の足元から音もなく飛び出した。

 彼女も、殺されてしまう。
 あの男と同じように、切り刻まれて…。
 動きが人間業じゃない。
 やはり、能力者…。
 レイヴンと同じように、圧倒的な力で、
 自分たち何の能力(ちから)も持たぬ一般人をねじ伏せる…。

 あらぬ方向に向かって銃を構えている少女の足元から、
 必殺の凶刃が迫る。
 秋螺に見えたのは、そこまでだった。

 少女はゆらりと倒れこむように上体を倒して氷の刃をかわし、そのまま身体を回転させながら
 ぴたりと銃口を畑野に合わせた。

 バンッ!

 攻撃をかわされた畑野は、そのまま上空まで飛び上がり、重力の作用で戻ってきた。
 だが、己が足で着地することはなく、顔面から枝に激突した。
 ゴキッと音がして、畑野は動かなくなった。
 少女はため息をついて呟いた。
「正常な能力者なら、嗅覚で相手が能力者かどうかわかるはずなんだけど…。
 やっぱりこの樹から発せられる匂いが、彼らの思考を麻痺させているみたいね…」

「き、君も、能力者なのか…?」
 秋螺は幹にもたれかかりながらも、なんとか立ち上がった。
「…ええ。そうよ。でも安心して。
 私は彼らのように、誰彼構わず襲ったりはしないわ」

 少女、国崎静華は薬の力で能力者と同様の力を得ている。
 だが、所詮は薬の作用。
 真に能力者になりきれないことが幸いして、
 静華は平静を保っていられる。
 ここに来るまでに、静華は何度か他の能力者と遭遇し、戦闘したが
 そのどれもが思考力に欠けていた。
 会った能力者の誰もが、ひたすら他人を蹴落とし、上を目指そうとしていたのだ。
 力を得るために、とも言っていた。

 この樹の最上に何かがある。
 行かなければならない。
 それが危険なものなら、それを処理するのは自分の役目だ。
 静華はそう推理していた。
 そして、これは勘だが、この樹の頂上には
 仇敵、レイヴンがいる。
 そんな気がしてならなかった。

「あなた、本当に能力者ではないよね?」
 少女が秋螺に問うた。
 ためらいがちにだが、秋螺ははっきりとうなずいた。
「それなら、どうしてここにいるの?
 というより、どうやってここまで来たの?」
 ここには自分とレイブンしかいない。
 そう思っていた矢先、能力者に襲われた。
 そのせいで、記憶がはっきりしない。

「この樹は杉の樹のように、根元から半分くらいまで登れるような足場はないわ。
 ……能力者でない限りね。
 それとも…」
 静華は言葉を飲んだ。
 薬の存在は機密だ。
 軽々しく口に出してはいけない。
 だから静華も秋螺には自分も能力者であると嘘をついた。

 秋螺が口を開こうとしたとき、枝が意思を持つかのように蠢きだした。
「まずい!血の匂いをかぎつけたわ!
 とりあえずここから離れましょう!
 巻き添えを食うわ!」

 少女が手を差し伸べた。
 秋螺がそれを掴むと、信じられない力で引っ張られた。
 跳んだのだ。
 危うく肩が抜けるところだった。

 上の階に着地した秋螺は肩を抑えた。
「ごめんなさい。
 失念してたわ」
 少女が申し訳なさそうに頭を下げた。
 下方から地響きのような音と、肉が裂けるような気味の悪い音。

「ここでは、あまり傷を負わないようにして。
 この樹は血の匂いをかいで襲ってくるみたいなの」
 ぞっとしない。
 秋螺はうなずくしかない。

「あ、そうそう。
 私は国崎静華。あなたの名前、教えてくれる?」
「俺は、笹仲秋螺…」
 静華はふっと微笑んだ。
 秋螺の心を解きほぐすみたいに。
 この一瞬だけ、世界が切り離されたかのように。

「そう、笹仲くん。
 それで、君はどうやってここに?」
 そうだった、俺はどうしてここに…。
「えっと…」

 突然、静華が叫んだ。
「ええい!もう、鬱陶しい!」
「へ?」
 直後、先ほどと同じように、枝を強引に破って突きあがってくるような音。
 現れたのは、二人組みの男だった。
 お笑いコンビのように、太った男とやせた男。

「ふう、ふう…。兄じゃ、おで、つがれだよ」
 太った男がだみ声でやせた方に話しかける。
「頑張れ、次郎。頂上まであと少しだ」
 やせた男は、次郎と呼んだ太った男を励ました。
 さしずめ、このやせた男は一郎もしくは太郎とでもいうのだろうか。
「ん?」
 太った男が、静華と秋螺に気付いた。

「笹仲くん、能力者よ。どうやってあなたがここまで来たのか聞いてないけど、
 その様子じゃ、降りるのは難しそうね。
 だからとりあえず上に登って。
 私もあとから行くから」
「…でも、相手は二人もいるし」
「あなたが居ても役に立たないのは、さっきの戦闘でよくわかったでしょう?
 さ、行って。
 暗いから気をつけて。怪我しないように、ね」
 静華がにこりと微笑んだ。
 ああ、俺この微笑に弱いかも、などと場違いなことを考えてしまう。

 すぐに思考を戻して考える。
 自分は非力だ。
 よくわかっている。
 だが、大の男二人に対し少女を楯に自分が逃げるのはもっと情けない。

「なぁ、兄じゃ、あの女、八雲ににでないか?」
「お前の目は節穴か。似ても似つかん」
「うう、ごめん」

 何か、何か俺にできることは…。
 そう、レイヴンだ。
「レイヴン!」
 はっ、と静華が振り向いた。
「そうだ、レイヴンだ。
 俺、あいつに連れてこられたんだ。
 上まで行って、あいつを連れてくる!」
 行って秋螺は階段状になった枝を駆け上り始めた。
「……、レイヴン。
 やはりあいつが…」
 静華の瞳に暗い炎が沸き立つ。

「兄じゃ、あいづ八雲じゃないなら、『食って』いい?」
「好きにしろ。俺は今の男が発した言葉が気になる。
 ここはお前に預けるぞ」
「は〜い」
 太った男、次郎が裂けそうな大きな口をにぃっと歪めた。
 やせた男が跳ぼうと腰をかがめると。
「待ちなさい」
 凛と、静華が制止の声を投げた。
 ポケットから出した数錠の錠剤を噛み砕いた。
 その目は、樹の匂いに当てられた能力者たちのように、
 暗く、貪欲な炎を灯していた。








「これが、ナンプル・ティディスの実。かぁ」

 流暢な英語が、歌うように投げかけられる。
 見事な金髪をカウボーイハットに隠し、
 枝に突き刺さった巨大な―死神の持つような―鎌を引き抜いた男の手には、
 黄金に輝くリンゴが握られていた。
「………くっ」
 その足もとに、悔しそうに膝をつくレイヴンの姿。
「ルイス・ロズウェル……!」

 雲よりも高い樹の上で、死神の鎌持つ男のマントがはためく。
「どんな味がするんだろうな」
 楽しそうにレイヴンを見下ろしながら。
 レイヴンの後継者に選ばれた男は、黄金のリンゴをかじった。

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