第四話


「例のことで事件が起きた。種子が血を吸っている可能性がある。
 一刻も早く動いてくれ」

 その報告を受けたのは、昨日のことだった。
 メールをもらってからすぐに動いたつもりだったが、事件はそれを超える速さで展開していた。
 今、国崎静華(くにさきしずか)はビルの間を縫うように、パトカーを走らせていた。
 目的地まではまだ遠い。
 だが、「その樹」はそこからでもよく見えた。
 それほどまでに巨大だ。
 サイレンを鳴らし、邪魔な車たちをどける。
 そこかしこでサイレンが聞こえる。
 思うようにスピードが出せない。
 無線から現地の様子が垂れ流される。
 焦りが募る。

「事故っ?」
 静華は急ブレーキを踏んだ。
 すぐ前方でパトカー同士が衝突し、煙を上げていた。
「もう!馬鹿!」
 ここで立ち止まっている暇はない。
 あの樹の近くに、レイヴンがいるのだ。
 静華の仇敵が。

 車を降りて、ポケットの錠剤を一つ噛み砕いた。
 能力者に対するために作られた特殊工作科にのみ配られる覚醒剤だ。
 世界に能力者はいない。
 そういうことになっている。
 だが、たしかに存在する。
 能力者は何故生まれたのか。
 その原因を突き止め、彼らと折り合いをつけるためにこの科が作られた。
 そのためには、彼らと同等の力を得なくてはならない。
 静華の黒瞳が赤く染まった。
 次の瞬間には残像を残して消えていた。
 
 この薬を飲めば、約十分の間は他の能力者と勝るとも劣らぬ力を得られる。
 筋力、反射神経、運動神経、動体視力………。
 だが、副作用は当然ある。
 ゆえに、特殊工作科でも、この薬は一月に一錠までと定められている。
 現状は、それでも薬の効果が強すぎる。

 薬の効果が切れ始めた頃、静華は巨大な樹の根元に着いた。
「…?」
 おかしい。
 あたりは静寂だった。
 警察官、一般人、すべてが倒れていた。
 はるか頭上から、大量の花粉が降ってくる。
 まわりに黄色い粉が薄く積もっていた。
「な、なんだ」
 ちょうど今到着したらしい警察官がその花粉を吸い込んだとたん倒れた。
 慌てて抱き起こすが、その警察官はぐっすりと眠り込んでいた。
「………」
 頬をたたいても起きる様子はない。
 急に静華にも眠気が襲ってきた。
 静華は迷いもなく二錠目を噛み砕いた。
 とたんに眠気が飛ぶ。
 上を見上げた。
「この樹のてっぺんに、奴がいる気がする…」
 静華は力いっぱい跳躍した。





「…ううん………」
 秋螺は少し頭痛の残る頭を抑えて身を起こした。
 突いた手のひらが痛い。
 ざらざらする。
 視界はかなり暗い。
 耳鳴りが大きい気がする。
「まさか、起きるとはな…」
 声が聞こえた。
 ふと見上げると、
「レイヴン!ここは…?」
 昼間に会ったときと同じ格好で、レイヴンが立っていた。
「ここは、ナンプル・ティディスの樹の上だ」
「ナンプ…、何だって?」
 聞きなれない単語だ。
「ナンプル・ティディスだ。今朝レイヴンが君に尋ねただろう。
 種子はどこだ、と」
「ま、まさか…」
 秋螺は下を覗き込んだ。
 幾重にも絡まる枝の隙間から、小さなおもちゃのような町が見えた。
「ウソ…だろ…」
「嘘ではない。
 君の家に隠してあったナンプル・ティディスの種子が、何らかの方法で血を吸い、成長したのだ」
「あぁもう何がなんだか…。いったい誰の血を…」
 父か母か、いやそれはない。
 どちらも出張で、この近くにはいないはずだ。
「……もしかして、エリカか…?」
「エリカ?八雲のことか?」
「違う、獅子堂絵李歌。一昨日の事件で…」
 唐突に、上から枝が襲ってきた。
 槍のように先を尖らせ、レイヴンを狙った。
「うわぁ!」
 秋螺は驚いてしりもちをついた。
 レイヴンは後ろに一歩引いただけだった。
 枝に枝が突き刺さった。
「そうだったな。その子のロケットとやらに種子が入っていたのだったな」
「そうそう!そうだよ!って、うわー気持ち悪い」
 レイヴンを狙って足元に突き刺さった枝が、どんどん太くなり幹のようになる。
 そして側面から幾重にも枝が伸びる。
 続けて横から二本、枝が交差する。
 レイヴンが飛んで避け、その上に立った。
「おいおい、やばいぞ。どうするんだ」
「上へ行く」
 レイヴンが上を指した。
 葉が繁り何も見えない。
「上に何が…?」
「ナンプル・ティディスの樹は頂点付近に実を生らす。それを採りに行く」
 別の方向から再び枝が伸びた。
 レイヴンはかがんでかわした。
「とにかく上へ。レイヴンは、悪いが少し先に行く」
「え?お、おう」
 言うとレイヴンはさっと跳躍し、瞬く間に秋螺から去っていった。
 それを追うように、何本もの枝が矢のようにレイヴンを追いかける。
「あいつ…大丈夫かよ…」
 とりあえず秋螺も上り始めることにした。
 上から斜めに走っている枝を選んで上っていく。
 生態を無視した枝葉の乱立が幸いして足場には困らなかった。

 秋螺にはわからない。
 今、何が起きているのか。
 今目に見えているものが全てではないことくらい判っている。
 自分の知らなかった存在。
 能力者。
 レイヴンという人間。
 明らかにおかしいこの樹。
 ナンプル・ティディス。
 
 何故このようなことになったのか。
 その因果関係など、秋螺に知る由もない。
 今、自分はどのような状況に置かれているのか。
 レイヴンは話してくれなかった。
 判るのは、巨大な樹の中にいる。
 それだけ。
 上を目指して何があるというのか。
 ナンプル・ティディスの実。
 それを採りに行くのに、自分までもが必要な意味がわからない。
 レイヴンは先に行って、秋螺はあとから来る。
 ……何故?
 過去を知らず、今を判らず、未来を読めず。

 秋螺は、レイヴンを信じるしかなかった。



 レイヴンは焦っていた。
 予想に反して樹の成長が早まった。
 レイヴンとしては、他の勢力が秋螺が種子を持っていることに気付いていない間に、
 できるだけ穏便に種子を手に入れたかったのだが。
「こうなっては……」
 そして、上にのぼるほどに強くなっていくこの香り。
 おそらく秋螺は気付いていなかっただろう。
 それは、「能力者」ではないからだ。
 ナンプル・ティディスの樹に関しては、その中心人物の一人ということもあって情報を得ていた。
 だが、この香りを能力者が嗅ぎ付ければ、薄々感づいてしまうはずだ。
 遠くから樹の存在を確かめたとき、かすかな香りを感じた。
 そして、自分でも抑えきれぬ衝動を感じた。
 近辺に潜在、あるいは自分たちを探っていた能力者たちが、この機会を逃すはずはない。
――――この町にいる能力者は自分だけではない!
 急いで樹の元へ辿り着くと、大勢の昏睡者の中に秋螺がいた。
 レイヴンは秋螺を抱きかかえ、樹をのぼった。
 一種の賭けだ。
 彼が目覚めれば、彼にしようと。
 目覚めなければ、仕方がない……。

 甘く、かすかに酸っぱい。
 樹をのぼって、上へ行け。
 誰よりも早く、その「実」を食らえ!
 ナンプル・ティディスの樹の実を食らえば、「力」が手に入る……。
 樹に関する情報など持っていなくても、能力者ならわかる。
 わかってしまう。
 だから、急がねば。
「全てはレイヴンの我侭から始まった…!責任を取らなければ!」
 足の力が抜ける。
 かけた足が滑って枝を離れた。
 本能的に手を伸ばし、枝にしがみつく。
 失いかけた意識を一瞬で戻し、体を振る。
 その勢いで更に上へ。
 意識がかすむ。
「……」
 原因はわかっている。
 もうすぐ頂上だ。
 だが、これで終わるとは思えなかった。
 コートのポケットを探る。
 小さな感触。
 それを口に含み、噛み砕く。
 特殊工作科のみに配られる、対能力者用の錠剤が溶ける。
「うっ!」
 心臓が大きく跳ねた。
 腰からナイフを引き抜き、幹に突き立てた。
 体が痙攣し、しばらく動けなくなった。
「がはっ…」
 吐いた血が、幹を伝って下へ流れる。
――――時間がないのは同じか…。
 痙攣と胸の激痛が治まると、力が湧いてきた。
 レイヴンは突き立てたナイフを足場にし、更に跳躍した。
「あれだ!」
 空気の温度が変わった。
 湿った空気から、澄んだ心地よい風へ。
 樹の頂上についたのだろう。
 ならば、あるはずだ。
 黄金に輝く、ナンプル・ティディスの実が。
 すぐ近くに芳醇な香りの発信源を感知する。
「これだ!」
 再びかすみ始める意識を胸の痛みで相殺し、レイヴンはそれに手を伸ばそうと…。

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